祖父と空手と文化

12歳で空手を離れた、三つの理由

全国優勝の翌年、私は空手着を畳んだ。

小学6年生で、所属する錬心館重富支部から初めての全国大会優勝者になった。その翌年、中学に上がるタイミングで、私は空手から離れた。

外から見れば「もったいない」選択だったと思う。実際、当時もそう言われた覚えがある。正直に書くと、当時の私自身も、その「もったいない」という気持ちと「離れたい」という気持ちの間で、ずいぶん揺れていた。

それでも12歳の私は、最終的に離れる方を選んだ。今振り返ると、その選択の背景には三つの理由があったように思う。少し長くなるが、書いてみたい。

一つ目 ── 役目を果たした、という静かな感覚

優勝した後、自分の中に「連覇を狙う」という気持ちは生まれなかった。

支部から全国優勝者が出たのは私が初めてで、上に目指す具体的な姿が見えていなかった、という事情もある。加えて、小学5年の頃から友人の誘いでサッカー少年団にも入っていて、気持ちが少しずつそちらに移っていた。

正直に書くと、優勝した当時の私は、ある種の無双状態にいた。何をしてもうまくいく、という明確な感覚が自分の中にあった。全国大会優勝という結果は、大きなことではないかもしれないが、12歳の自分にとっては「行動を重ねたら結果が出る」という手応えそのものだった。

ところが、その手応えと同時に、もう一つの感覚が顔を出していた。

「このまま進んでうまくいっても、面白くないな」

今思えば、ずいぶん生意気な感覚だ。でも、当時の私は本気でそう感じていた。違う自分で生きたい。違う分野で勝負したい。違うやり方で結果を出したい。

そして、もう一つ。当時の自分が言葉にできていなかった感覚がある。

私の祖父は奄美大島出身の教育者で、錬心館の開祖である保勇宗家にとっての恩師にあたる人だった。私が空手を始めた背景には、祖父との三世代にわたる縁があった。

全国優勝したことで、私は宗家とお会いする機会を得た。そこで、祖父と宗家の関係を、自分自身の体験として受け取り直すことになった。

12歳の自分にこれを言語化する力はなかったが、潜在的に「祖父から始まった縁を、自分の手で一度結び直した」という完了の感覚があったように思う。「やりきった」という言葉の本当の中身は、たぶんこれだ。技術的にやりきったのではなく、回路が一度完結した、という感覚。

無双状態の手応えと、「このままじゃ面白くない」という違和感と、回路が完結した静かな感覚。三つが重なって、辞めることへの抵抗が、思ったほど大きくなかった。

二つ目 ── 「空手の人」という枠に収まりたくなかった

これは当時も、はっきり感じていた。

全国優勝した、ということは、周りから「空手の子」として見られるということだ。そのラベルを自分の上に貼られることに、私はどこかで強い違和感を持っていた。

12歳が言語化できる感覚ではなかったから、当時は「なんとなく嫌だ」としか思えなかった。でも今振り返ると、これは「自分の可能性を一つに絞られたくない」「自分が何者かは、自分で選びたい」という、ごく根本的な意志だったのだと思う。

そして、これは私の中に昔からあった気質だと、最近になって気づいた。

実は私は幼稚園の頃まで左利きで、それを矯正された経験がある。詳しい話は別の機会に書くつもりだが、その矯正される前の自分 ──ごく自由に、自分の感覚のままに振る舞っていた自分── が、人生の節目で時々顔を出すのだ。

優勝した後の選択の時も、たぶんあの「本当の自分」が顔を出していた。「枠に縛られたくない」と。一方で、矯正された後の自分 ──いい子で、頑張り屋で、周りの期待に応えてきた自分── は「続けた方がいい」と言っていた。

二人の自分が、せめぎ合っていた。最終的に「本当の自分」が勝って、空手から離れる選択になった。

ただ、ここで一つ書いておきたいことがある。

矯正された後のいい子の自分も、間違いなく私を支えてくれた存在だ。空手を選ばせてくれたのも、全国優勝するまで行動させてくれたのも、活発に動く自分を作り上げてくれたのも、その自分だった。

どちらが本物で、どちらが偽物、という話ではない。両方とも、私を生かしてきてくれた自分だ。どちらも大事にしたい。

そして、これは今も続いている話だと感じている。三世代の縁の中に自分が立っているという事実そのものを、ありがたいと思う気持ちがある。心から嬉しい。でも、同時に「その枠に縛られたくない」という感覚も、12歳のあの頃と同じように並走している。

名誉や縁を受け取ることと、自分の存在をそこに固定しないこと。この二つは矛盾しない。両方を抱えていることが、私という人間の在り方なのだと、ようやく言葉にできるようになった。

三つ目 ── 「型で優勝しただけ」の自分が知っていた現実

これは少し、生々しい話になる。

私が進学する予定の中学校は、当時、地元ではやんちゃな子が多いことで知られていた。そこへ「全国優勝した空手の子」が入っていけば、どうなるか。12歳の私には、その先が見えていた。

ちょっかいを出される。試される。場合によっては、絡まれる。

ここで誤解しないでほしいのだが、私が優勝したのは「型」の部門だった。決められた動作を正確に、力強く演じる演武の競技だ。組手 ──実際に相手と打ち合う競技── で強かったわけではない。少しはやれたかもしれないが、体も小さく、年上の大きな子に勝てるような体格ではなかった。

「全国優勝」という看板と、自分の実際の強さの間には、ギャップがあった。そのことを、12歳の私はちゃんと自覚していた。

そういう状況で看板を背負って中学に上がるのは、ちょっかいに屈することにつながりかねないし、そもそも絡まれること自体を避けたかった。これを「逃げ」と呼ぶ人もいるかもしれない。でも私は、12歳の自分なりの自衛だったと思っている。自分の身を、自分で守る判断だった。

揺れながら選んだ道を、今は肯定できる

役目を果たした感覚。枠に縛られたくないという意志。自分の身を守るための判断。

三つの理由はそれぞれ別の層の話で、どれか一つが本当の理由というわけではない。三つとも、本当だった。

ただ、ここまで書いてきて改めて思うのは、当時の私はそれを明確に整理できていたわけではない、ということだ。離れる時の私は、すごく悩んでいた。「もったいない」という気持ちと「離れたい」という気持ちが、ずっとせめぎ合っていた。

「離れてよかった」と思えるようになったのは、ずっと後のことだ。たぶん、今、こうして書いている今が、初めてはっきりとそう思えている瞬間かもしれない。

離れた後、私は別のことに手を出した。ダンス、バスケットボール、サッカー部。どれも実にはならなかった。今振り返ると、結局のところ、一点に集中してやることの方が力は出しやすかったのだろうとは思う。

でも、それでも、あの時に離れる選択をしたことを、今の私は肯定している。自分で選んで、自分の足で歩く ── そういう生き方の起点は、たぶんあの12歳の選択にあった。あれから30年以上経って、私は自分の手で会社を作り、自分のやり方で空手を伝える場を持つようになった。12歳の私が怖がっていた「組織の外の世界」に、ちゃんと立てている。

揺れながら選んだ道だった。それでも、今は肯定できる。

(空手から離れた後、私が何をしていたか ──そして、何をできなくなっていたか── という話は、また別の機会に書きたいと思う)

ABOUT ME
ゼロパパ
鹿児島の父ちゃん。妻と3人の子どもと暮らしています。 17年続けたホテル業界で心を壊しかけ、独立を決意。 今は配達・空手体験・Airbnb・WEB制作で働きながら、 取り戻した時間で家族と過ごしています。 同じ状況にいる父親たちに届けたくて書いています。