祖父と空手と文化

祖父と、錬心舘と、高麗町 — 三代を超えて巡ってきた、一つの恩の物語

三代を超えて巡ってきた、一つの恩の物語


高麗町から始まる

私、稲田裕一は今、鹿児島市高麗町で、世界中から訪れるゲストに空手体験をお届けしています。場所は、錬心舘創設の地。70年以上前、一人の青年がこの町で道場を開き、やがて全国に支部を持つ流派となりました。その流派の名は、道統少林寺流錬心舘空手道。

この場所で私がゲストをお迎えしているのは、偶然ではありません。

私の家族と錬心舘開祖・保勇宗家は、私が生まれるずっと前から、一つの糸でつながっていました。その糸の始まりは、戦時中の奄美大島にまでさかのぼります。


奄美大島の小学校教師だった祖父

私の父方の祖父は、奄美大島の小学校で教鞭をとっていました。やがて校長も務めた人です。

祖父は生徒たちに、ただ勉強を教えるだけの人ではありませんでした。戦時中の物資が乏しい時代、自分の給料を家族にではなく、生徒や近所で困っている人々に分け与えることが多かったそうです。そのため家族は生活に苦しむこともあったと聞きます。

今の時代の感覚で見れば、家族を顧みない人と思われるかもしれません。けれどその時代、教師という仕事は単に給料をもらう職業ではなく、「地域を育てる人」「次の時代を預かる人」という意味を持っていました。祖父は、その役割を全うしようとしていたのだと思います。

祖母は奄美大島の良家の出身で、実は祖父の教え子でした。先生に嫁いだのです。当時の慣習なのか、本当に祖父を慕っていたのか、祖母は祖父の生き方に従順に寄り添い続けたと聞いています。家族を困窮させることもあった祖父の選択を、祖母は静かに支え続けました。

祖父と祖母の間には、十一人の子どもが生まれました。私の父は、その十一人兄弟の末っ子です。

当時は、十二人の子どもを産んだ家庭に国から奨励金が出る時代でした。あと一人だったそうです。そのため、家計は常に苦しかったと聞いています。

十一人の子どもを育てながら、祖父は給料の多くを外に分け与えた。その生活を、祖母が背負い続けた。

私は生前の祖母に会ったことがあります。いつも笑顔が素敵で、目尻の笑いシワが本当に印象的な人でした。私を気にかけてくれる祖母のことが、私は大好きでした。

祖母が晩年、あまり動けなくなってからも、いつもこたつに座っていました。私はその頃、わざと転んだふりをして祖母を驚かせるという悪戯をしたことを覚えています。こたつの中から「あらっ」と声を上げて心配してくれる祖母の顔を見るのが、子ども心にどこか嬉しかったのです。安心するとまた笑ってくれる、その笑い顔が見たかったのだと思います。

あれだけの生活を背負いながら、祖母はいつも笑っていた。今思い返すと、本当にすごい人だったと思います。


一人の生徒が、錬心舘の開祖になった

祖父が奄美大島で教えた生徒の中に、一人の少年がいました。名前は、保勇(たもつ いさむ)。

後に、道統少林寺流錬心舘空手道を創設する、その人です。

少年の日、祖父は彼に何を教えたのでしょうか。読み書きだったのか、姿勢だったのか、生き方そのものだったのか。詳しいことは私にはわかりません。けれど、後に開祖となった保宗家が、祖父のことを何十年も心に留めていたことは確かです。


「稲田先生のお孫さんね」

祖父は鹿児島本土に渡り、現在の姶良市に居を構えてからも、同じように生きました。給料を家族以上に、地域に分け与える。困っている人に手を差し伸べる。

そのおかげで、私は子どもの頃から近所の人に「稲田先生のお孫さんね」とよく声をかけられました。祖父は私が生まれる前に亡くなっていて、会ったことはありません。それなのに、祖父の影はあちこちに残っていて、私はその影の中で育ちました。

会ったことのない祖父に、私は色々な場面で出会っていました。


六歳の頃、空手を始めた理由

空手を始めたのは、六歳の頃でした。

今振り返っても、あれは「最初から本気」だったと思います。普通、六歳の子どもが習い事を始めるときは、親に連れられてというのが多いと思います。でも私の場合は、自分の中から何か衝動のようなものが湧き上がって、「始めなければいけない」という強い感覚に突き動かされました。母に必死でお願いしたのを、今でもはっきり覚えています。

なぜあんな衝動が自分の中にあったのか、当時はわかりませんでした。けれど、今になって思うのです。

あれは、天国の祖父からの後押しだったのかもしれない、と。

所属は錬心舘重富支部。師範は、吉永先生でした。

今の時代とは違い、当時の稽古は厳しいものでした。先生は竹刀を持って稽古場に立ち、型のできていないところを竹刀で叩きながら指導していました。決して怖いだけの先生ではありませんでしたが、稽古場には独特の緊張感がありました。

けれど不思議なことに、「厳しい」という記憶より「一緒に頑張った」という記憶のほうが強く残っています。

それは、先輩方のおかげです。

重富支部の先輩方は、優しくて頼れる人たちでした。総本部など他の支部には確かに強い選手が多く、大会で何度も顔を合わせることになります。稽古をともにすることはありませんでしたが、そういう「外の強さ」を感じながら、支部の中ではみんなで励まし合い、一緒に鍛え合っていた。そんな温かい道場でした。

小学4年生、大阪大会

小学4年生のとき、全国大会(大阪大会)に出場しました。結果はベスト16。勝ち上がることはできませんでした。

ただ、あの大阪遠征は、試合の結果以上に鮮やかに記憶に残っています。

大阪には、いとこのお兄ちゃんが当時住んでいました。お兄ちゃんに会えるのも、飛行機に乗れるのも、小学生の私にとっては大きな楽しみでした。

お兄ちゃんはお土産にラジコンを買ってくれました。みんなで甲子園球場に行き、夏の高校野球を観戦したのも、今でも鮮明に覚えています。

昼食の席では、私がうっかり水をこぼしてしまい、吉永先生の一張羅に水をかけてしまうというハプニングもありました。先生には申し訳なかったのですが、あの場の空気、周りの人たちの慌て方、今思い出すと微笑ましい記憶です。

そして、試合会場で一つ、忘れられない出来事がありました。

他の地区から来た見知らぬお兄さんが、私に声をかけてくれたのです。話の流れはよく覚えていないのですが、その人はこう言いました。

「優勝を目指せよ」

なぜその言葉が私の中に残ったのか、今でも不思議です。けれどその日から、「優勝」という言葉が私の中で少しずつ形を持ち始めました。


二年後、鹿児島大会

小学6年生になった年、全国大会は鹿児島大会でした。地元開催です。

大会の少し前、先生と父、同じ支部の出場者たちと一緒に、地元の岩剣神社にお参りに行きました。地域で昔から親しまれてきた神社です。

大会当日の朝、私はなぜか調子の良さを感じていました。母に「今日はなんか調子がいい、できる気がする」と言ったのを覚えています。自信と予感が混ざったような、不思議な朝でした。

試合が始まってみると、本当に順調に勝ち進みました。以前からよく顔を合わせていた強豪たちも、次々と敗れていきます。その中で、私はトーナメントを勝ち上がっていきました。

当時、錬心舘の全国大会はテレビ放映されていた時代です。だから、この日の映像は今でも残っています。


決勝戦

決勝戦の相手は、錬心舘総本部の選手でした。本部の稽古場で鍛え上げられた強豪です。

錬心舘の型試合では、四方から4人の副審判が型をチェックし、赤白の旗で判定します。旗が3本以上上がれば勝敗が決まりますが、2対2で割れたときは、主審が最終判定を下します。

私は、自分のすべてを出し切りました。最後の型まで、「今日の自分にできる最上のもの」を演じきったという感覚がありました。

判定のとき、副審の旗は2対2に割れました。

その瞬間、主審の手に勝敗が委ねられました。

主審を務めていたのは、後の二代目宗家になる方でした。その方は総本部で指導をされていて、対戦相手の選手の師匠にあたる立場だったはずです。ご自身の教え子が勝つか、地方支部から来た私が勝つか。その判定を、一瞬で下さなければならない。

主審は、私に勝ちを与えてくれました。


父の「やったー」

勝敗が告げられた瞬間、観客席で見守っていた私の父が、大きな声で叫びました。

「やったー!」

その声は、テレビの放映にもしっかりと残っています。

父の隣に座っていた、同じ出場者のお父さんは、椅子から転げ落ちたそうです。錬心舘重富支部から全国優勝者が出たのは、これが初めてでした。関係者にとって、それほど予想外の出来事だったのです。


宗家のご自宅に招かれて

優勝の知らせは、すぐに錬心舘本部に届きました。

初代宗家である保勇先生は、ご存命でした。そして、私が「稲田先生の孫」であることを知ったとき、宗家は私を自宅に招いてくださいました。

吉永先生(重富支部の師範。私の空手の恩師)と父と私の三人で、宗家のお宅に伺いました。

ご自宅周りには砂利が敷かれ、庭には丁寧に整えられた植物が並んでいました。室内の雰囲気は、格式のある日本家屋そのもので、静かで凛としていました。

昼食は、綺麗な折に包まれた上品なお弁当でした。

食事をしながら、宗家は祖父のことを語ってくださいました。どれほどお世話になったか。どれほど感謝しているか。会ったことのない祖父の姿が、宗家の言葉を通じて、初めて私の中で立ち上がってきました。

恩師の孫が空手の道を歩み、全国の頂点に立った——。その事実を、宗家は心から喜んでくださっているのだと、私は感じました。

戦時中の小さな島で、祖父が手渡したものが、半世紀を超えて、孫の私に返ってきた。恩が、三世代を超えて循環していた。

そのことに気づいたとき、私はまだ小学生でした。言葉にはできなかったけれど、何か大きなものが自分の背中に乗った気がしたのを覚えています。


祝賀会の夜

優勝後、自宅で祝賀会も開かれました。

吉永先生、当時の学校の担任だった井上先生、そして川崎宗則くん。後にメジャーリーガーとなる川崎宗則くんも、当時は同じ道場で一緒に練習していた門下生でした。お父さんと一緒に、お祝いに駆けつけてくれました。

他にも多くの方が集まり、私の家は賑やかな夜になりました。

あの夜の空気を、今でも覚えています。


父の誘いと、もう一つの選択肢

その後、私は高校・大学を経て社会に出ました。

就職したのはホテル業界です。ただ、ここには理由があります。

当時の私は、大学を中退して、どうしていいかわからない状態でした。ほとんど引きこもりのような時期で、社会経験もまだほとんどありません。

そんな時期、父から誘いを受けました。父はかつて建設会社の専務を務めていましたが、理由あって退職し、この頃にはすでに自分で事業を始めていました。父は、何もしていない私に「一緒にやらないか」と声をかけてくれました。

ありがたい話でした。けれど、私は悩みました。

社会経験もない自分が、事業を始めて間もない父と一緒にやっても、きっとうまくいかない。むしろ迷惑をかけてしまう。そう考えて、私はこう決めました。

「まずは組織の中で、しっかり育てられよう。経営者の後ろ姿を近くで見て、自分もそうなれるようになってから、独立しよう」

そう決めて、ホテル関連事業の社長についていくことにしました。

つまり、ホテル業界に入ったその日から、私は「いつか独立する」という目標を持っていたのです。ただ、その道筋は、父のもとで一緒にやるのではなく、自分の力で別の世界から学んで帰ってくる、という道筋になりました。

父の誘いを受けなかったことを、後ろめたく思った時期もあります。けれど今振り返ると、あの時の選択が、私に「組織の中で育てられる」という経験をもたらしてくれました。

17年の歳月と、壊れかけた心

そうして17年の時が流れました。

ホテルの仕事に、空手の出番はありません。けれど、子どもの頃から道場で後輩に指導を任されてきた経験は、思わぬ形で生きていました。スタッフ教育、新人研修、現場でのコミュニケーション。「教えること」は、形を変えて私の仕事の中心にあり続けたのです。

若い頃、後輩に教えることを「めんどくさいな」と感じた瞬間もありました。でも、社会に出てから振り返ると、あの経験がすべて地続きだったと気づきました。

そして、17年の歳月の中で、私は心を壊しかけました。

長時間労働、重い責任、消えていく時間。立場が上がるにつれて拘束時間はむしろ増えていき、家族と過ごす時間はどんどん削られていきました。気がつくと、深夜の十二時まで働いているのが当たり前の日々になっていました。

若い頃に心に抱いた「独立したい」という気持ちは、ずっと温め続けていました。その原点には、「鹿児島の若者に元気を届けたい」という思いもありました。自分も若い頃に苦しんだからこそ、同じ場所にいる誰かに何かを渡したい。そう思い続けていたのです。

そうしてようやく、私は独立を決意しました。


そして今、高麗町で

ホテル業界を離れ、私は鹿児島で独立しました。複数の収入源を組み合わせた生き方を選び、その一つとして、海外からのゲスト向けに空手体験を始めました。

場所は、錬心舘創設の地・高麗町。

体験に来てくださる方の多くは、日本の文化や精神性に惹かれてやってきます。侘び寂び、禅、神道、武士道。そうしたものを、自分の言葉で伝えられるようになりたい。流暢な英語ではなくても、心から伝えられるようになりたい。そう思いながら、日々ゲストをお迎えしています。

一期一会という言葉を、私は大切にしています。二度と同じ人とは出会えない。同じ瞬間は戻ってこない。その重みを、60分の体験の中で、ゲストと分かち合いたい。


祖父から受け継いだもの

振り返ってみると、私の人生は、ずっと「教えること」「伝えること」の連続でした。

子どもの頃、道場で後輩に型を教えたこと。ホテルで後輩スタッフを育てたこと。そして今、海外のゲストに空手を通じて日本を伝えていること。

これらはすべて、形を変えた同じ営みだったのだと思います。そして、その源を辿っていくと、奄美大島の小さな学校で生徒に向き合っていた祖父にたどり着きます。

私は祖父に会ったことはありません。けれど、祖父が残したものは、まったく消えていませんでした。村の人々の記憶の中に、保勇宗家のお言葉の中に、そして気づかないうちに、私自身の選択の中に、祖父は生き続けていました。


このブログについて

私がこのブログを書き始めたのは、自分の物語を残しておきたかったからです。

17年のホテル業界で擦り切れかけた私が、独立して家族と時間を取り戻すまでの道のり。鹿児島の父ちゃんとして、子どもたちと過ごす日々。そして、祖父から続いてきた血と、錬心舘の地で世界と出会う今。

全部、つながっています。

もし同じように、労働と家族の間で苦しんでいる父ちゃんがこのブログを読んでくれたら。もし独立を考えている人が、ここを通り過ぎてくれたら。

私の書いたものが、何かの種になればと願っています。

祖父が生徒に手渡したものが、半世紀を超えて、私に返ってきたように。


2026年4月 ゼロパパ

ABOUT ME
ゼロパパ
鹿児島の父ちゃん。妻と3人の子どもと暮らしています。 17年続けたホテル業界で心を壊しかけ、独立を決意。 今は配達・空手体験・Airbnb・WEB制作で働きながら、 取り戻した時間で家族と過ごしています。 同じ状況にいる父親たちに届けたくて書いています。