父の言葉
「運命は変えられる」
子どもの頃から、父は時々そう言った。
訓示でも説教でもなかった。日常会話のどこかに、ふと混ざるように。だから僕は、長いあいだその言葉の重さに気づかなかった。
幼い頃の父は、よく雄弁に話してくれる人だった。 その口から出ていたこの言葉が、今、僕の中で別の意味を持ち始めている。
父が、家族のために守ってくれたもの
父にも、独立したいという思いはあった。
けれど、家族のために、その道を一度、後ろに置いた人だった。
建設会社で専務まで務めた父は、雇われの立場でありながら、経営の側で長く働いた。安定を選んでくれたのは、母と僕たち子どもがいたからだ。
僕たち家族の暮らしは、その選択の上に成り立っていた。
父がそうしてくれたから、僕は大学に行けた。失敗もできた。迷う時間ももらえた。
これは、当たり前のことではなかったのだと、今になって思う。
僕は遠回りをした
大学を中退した。福岡で一人暮らしをしていた頃、僕は引きこもった。
両親は、母と父の二人で、何度も鹿児島から車で駆け付けてくれた。仕事を抱えながら、息子のために。
その時期があって、その後があって、僕はようやく自分の足で立ち直り始めた。
ホテル業界に入った。17年勤めた。
社長の背中を見て学びたかった。サービス業の現場で、人と人の交わりを覚えたかった。学んだことは多い。間違いだったとは思っていない。
ただ、最後の数年で、心が壊れかけた。
詳しいことはここでは書かない。書けるようになったら、別の記事で書く。
ひとつだけ言えるのは、僕はその時期、父からもらったあの言葉を、ほとんど思い出せなくなっていたということだ。
「これが現実だ」「ここで頑張るしかない」「他に道はない」。
そういう言葉ばかりが頭の中で響いていた。
そして今、父の言葉が戻ってきた
独立して、複数の仕事を組み合わせて生きている。
フードデリバリーで配達もする。鹿児島を訪れる外国人ゲストに空手体験を提供する。Airbnbで手巻き寿司の体験を主催する。駐車場と太陽光発電を法人で管理する。WEB制作も少しずつ手がけ始めた。
一つ一つは、決して大きな仕事ではない。けれど、複数の足で立つことで、僕は時間と心を取り戻した。
子どもたちの成長を、ちゃんと見られる場所にいる。
これは、一つの会社に人生を預けていたら、決して手に入らなかったものだ。
そしてある日、ふと、父の言葉が戻ってきた。
「運命は変えられる」
子どもの頃に何度も聞いていたあの言葉が、今、僕の中で立ち上がっている。
このブログで伝えたいこと
このブログには、これから少しずつ、僕の考えと暮らしを書いていく。
派手な成功話ではない。鹿児島の片隅で、父ちゃんとして妻と子どもたちと暮らしながら、複数の仕事で立っている、ただそれだけの人間の記録だ。
けれど、もし今、どこかで「これが現実だ」「他に道はない」と思い込んでいる人がいたら、伝えたいことがある。
人生は、決められる。
会社にも、肩書きにも、過去の選択にも、縛られなくていい。
完璧な答えがなくても、一歩ずつ、自分で選び直していい。
それは特別な才能や運がある人だけの話ではない。
僕の父も、特別な人ではなかった。 ただ、僕にあの言葉を残してくれた人だった。
三世代の話
このブログのもう一つの背景に、僕の祖父の物語がある。
奄美大島から鹿児島に渡ってきた小学校教師だった祖父は、後に校長を務め、地域の子どもたちを育てた。教え子の中には、後に錬心舘空手道の宗家となる保勇先生もいた。
その縁が、孫である僕の人生にも巡ってきた。詳しくは別の記事に書いた。
→ Our Story:祖父と、錬心舘と、高麗町 — 三代を超えて巡ってきた、一つの恩の物語
祖父は奄美から鹿児島へ、自分の道を切り開いた。 父は家族を守るために、別のかたちの強さを選び抜いてくれた。 そして僕は今、二人が残してくれた土台の上で、自分の代の選択をしている。
これは、誰の人生にも形を変えて起きていることだと思う。
あなたにも、あなただけの土台と、あなただけの選択があるはずだ。
だからこのブログは、提案する
「自分の人生は、自分で決められる」
このひと言を、これから書く全ての記事の根に据える。
働き方、お金の組み立て、家族との時間、地方で生きること、文化と伝統との向き合い方 ―― どんなテーマを扱う時も、僕はこの根に立ち返る。
押しつけはしない。ただ、提案する。
「こういう道もありますよ」と。
「決められるんですよ」と。
父からもらった言葉を、今度は僕が、誰かに手渡せたら、嬉しい。